農林水産大臣賞 狭山市の中島園
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中島園の歴史

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中島園の歴史

中島園は根岸小谷田村(現入間市根岸)の草分け農家の一つで、初代は寛文8年(1668)2月に亡くなった「畠山道永信士」の法名を持つ人物で、現当主の敏雄で15代を数える。
家業は畑作、養蚕、機織をはじめ、江戸時代後期以降には現在の製茶業に続く茶作りに着手して経営基盤を固めていった。
9代目宗次郎順久は長くから宿望していた「八王子千人同心」へあこがれ、天保11年(1840)11月に同心株を購入して、その望みを実現した。また、その株は長男熊太郎に引き継がれ2代にわたって続いた。明治維新後の千人同心は、徳川家に帰参した者、新政府へ従事した者もいたが、大多数の者たちは「脱武者農」の道を選択し、278年続いた千人同心の歴史が終わった。我先祖も「農」の道を選択し、現在までも続くこととなる。

この時の「千人同心」から、屋号「お千人」が生まれたものとなる。 根通り根岸地区に共同製茶工場で昭和初期より茶作りをしていたが、昭和34年解散と共に個人工場をを作り、狭山茶生産に本腰を入れることとなる。 昭和43年入間茶研究会発足以来、良質茶製造に研究を重ね、昭和50年、53年、61年、平成13年、20年に農林水産大臣賞受賞、また、平成12年、21年には全国茶品評会で農林水産大臣賞を受賞する。
また、日本茶インストラクター、手もみ茶教師の資格を取り、地場産業である狭山入間茶のPRを兼ね、日本茶をより多くの方に知って頂く為、仕事をさせて頂いています。

なお、千人同心の装束、古文書等、入間市博物館(アリット)に展示しております。機会がございましたらご見学下さい。


中島家文書


-八王子千人同心関係文書を中心に-

 中島家は根岸小谷田村(現入間市根岸)の草分け農家の一つで、初代は 寛文8年(1668)2月に亡くなった「畠山道永信士」の法名を持つ人物で、現 当主の敏雄で15代目を数える。
 寛永12年(1635)10月の「検地帳」では、屋敷地1畝26歩、田畑は1町2反8 畝歩余の土地を所有し、その後、時代の推移とともに土地を増やし富裕 な農民へと成長していった。
 家業は畑作、養蚕、機織をはじめ、江戸時代後期以降には現在の製茶 業に続く茶作りに着手して、経営基盤を堅固なものとしていった。
 さて、9代目次郎順久は長くから宿望していた「八王千人同心」へあこがれ、天保11年(1840)11月に同心株を購入して、由緒番代わり(名義上の 養子縁組)という方法で実現した。
 この株は八王子宿の榛沢逸作という千人同心が、病身で役務ができないという理由で売却先を求めていたもので、宗次郎は株金65両に諸経費 合わせて82両1分余の大金をかけて取得したのである。
 宗次郎は榛沢が属していた原半左衛門組に属し、「榛沢宗次郎」と名乗 って役目にあたった。なお、千人同心は長男の熊太郎貞氏の二代にわた って続いた。
 明治維新後の千人同心は、徳川家に帰参した者、新政府へ従事した者もいたが、大多数の者達は「脱武着農」の道を選択し、278年間続いた千人同心の歴史が終わった。

一、中島家の初代がいつごろか

 屋号”おせんにん”中島家の現当主中島敏雄氏(昭和23年・西暦1948年生れ)は、同家第15代あるから初代はおよそ400年位前の時代といえるだろう(1代30年とする計算による)。 400年前といえば、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐して全国統一をなしとげ、同時に徳川家康が関東江戸城に入り、戦国分裂の時代を終わらせたころで、まもなく家康が関ヶ原の戦いで全国の大名支配を完成して、ようやく日本の社会に平和がおとずれたころである。以後約270年におよぶ江戸時代は、その前の戦国時代の戦争動乱の続いた不安定な時代に比べると、きわめて平和で安定した時代となったので、私どもの家系を探り祖先をたずねるとき、江戸時代前期までさかのぼることは、努力すれば決してできないことではありません。
 中島敏雄家の初代は、同家に伝わる過去帳(屋号”大東”中島幸太郎の調査)によると、『初代昌山道永信士、1669年(寛文8年)2月29日没』とあり、2代目惣右衛門(前心道庭信士)は、妻帯者で父より早く1666年(寛文6年)に亡くなっているので、初代は6、70歳位まで生きた人であろうと推定される。したがって1600年の関が原合戦頃の生まれと考えられる。

二、豊泉左近の土着

 初代はどういう人だったのだろうか。それについては、根岸村の開村と関係があるようです。江戸後期の幕府が作った地誌『新編武蔵風土記稿』を見ると、戦国時代末に小田原北条氏に仕えていた武士である豊泉左近とよばれる人が中神村に豊泉寺を建立し、開基したとある。豊泉左近は1575年(天生3年)没したのであるから、それ以前にこの地に土着して地域の指導的な位置にあったと思われる。北条氏が秀吉のために滅ぼされたのが1590年(天生18年)7月であり、それ以前は八王子城主北条氏照の支配下にあったこの地に、左近が北条氏の家臣としての武士身分をはなれて土着した事情が何であったのかはよくわからない。
 武田氏の滅亡や北条氏滅亡後なら、このような例はあり、武士の身分をすてこの地方に土着して江戸時代を通じて旧家となった家は多い。豊泉家も「旧家者七兵衛」として記されており、北条氏滅亡後に左近がこの地に来たのなら分かるのだが、それより10年から20年も前にこの地に来た事情は謎であるが、豊泉寺の開基でありこの頃に左近がいたことは疑いのないことである。

三、豊泉左近とは?

  根岸のかたは、よくご存知と思うが、中島幸太郎(明治27年・1894年生~昭和47年・1972年没)という方がおられた。第11代・第13代の金子村の初代公民館長としても地域の発展に尽くされた方で、しかも郷土の歴史にも関心を持たれ、『狭山茶史考』の著作のほか、『金子人物誌』『金子村大東亜戦誌』など多くの郷土史料を公民館から刊行されているが、
中でもより身近なものに『大東中島家私史』を残されている。
 中島幸太郎は、当然ながら豊泉左近とは如何なる人物かということについて、諸史料から探り、また小田原の郷土史家や伊勢(三重県)亀山市の郷土史家に問い合わせるなどして研究されていたが、確実な事はわからなかったようで、次のように推定している。
① 今から(昭和36年の起算で)四百五、六十年前の文亀・永正(1501~1520)の初代北条早雲活躍の頃の時代の人ではないか。
② 出身地は伊勢国(三重県)ではないか。
③ 豊泉氏が北条早雲の家臣で、その戦功によって金子郷を領するようになったとするならば、左近の父がこれに相当するわけであり、その場合父は小田原に残って北条の帷幄(いあく)に参画し、わが子に助六、助七の両従者をつけて、根岸の地に金子郷主としてよこしたものではないか。
以上、中島幸太郎氏は、ひじょうな努力により豊泉左近の出身や経歴を探られ、豊泉寺開基でありこの地の指導者として実在したことは疑うべくもないのだが、どんな人であったか、小田原北条氏との関係などをさぐられたが、確たることはつかめなかったのであった。
 しかし、最近の名字辞典の一つ『日本の姓氏-歴史人物大辞典』(角川書店)に、豊泉氏が江戸期の大名本多氏の家臣であり、駿河国(静岡県)の出身で1712年(正徳2年)に豊泉小左衛門尹親(ただちか)が上野沼田(群馬県沼田市)藩主本多氏に仕え1730年(享保15年)に本多氏が田中藩主(静岡県藤枝の田中城主)となり、豊泉氏も駿河に帰ったとあるので、今後注意したいところである。

四、当家のはじまり

『中島家私史』によれば、豊泉左近が当地に土着したときに、従者としてついてきたものに助六と助七という兄弟があり、それぞれ土着して助六は沢田を名字とし、助七の子孫は桂川(霞川)のほとり中の島に住んで、中島を名乗ったとされている。このことは口伝えではあるが、江戸後期の1799年(寛政11年)に中島幸太郎氏の六代前であり、分家初代茂左衛門が、先祖を供養して「”俗名助七先祖代々精霊”という墓石を建立し、”心学道庵信士”と諡号(しごう)し、その法要を営んでいる」こと。
また、幸太郎氏の祖母きんさんによると「豊泉左近はもと旗本格くらいの武士であり、その臣助六、助七を従えて根岸の地に来たり、主人左近は豊泉佐平氏の屋敷に居を備え、助六は沢田虎一氏旧屋敷跡に、弟助七は当屋敷を開創して、ここにおった」と云われているからである。
もう一度『中島家私史』を引用すると、「従者助六、助七兄弟もあるいは伊勢の人であったのでないだろうかと考察される。とにかく豊泉左近の身元が判明するに至らないので、助六、助七については、さらに分明することができない。その旧姓も不明であるが、根岸村沢田虎一氏旧屋敷に居住することになり、この地が『沢田』という地区になっていたところから、助六は沢田氏を称するようになったと推考される。
 また、弟助七は掛川のため、あたかも半島の如く突出て”中の島”の地形をなしていた。助七の兄弟の子孫についてかなり詳しく分家のこと、屋敷かわりのこと、1635年(寛永12年)の「小谷田村御縄打帳」(検地帳)のことなどについて記されている。
これらのことにより豊泉左近、その従者助六、助七の三者らをこの地の草分けとみなしてよいのではなかろうか。

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